Doll
暑い日がつづく。 クーラーがない生活にはさすがに耐えきれず、二週間まえに購入した。 が、まだ設置できていない。 マンションというのは最初に開いてる穴以外を使おうとすると、皆にはからないといけないらしい。 というわけで、ipadをもって阪大図書館でタダ涼を決め込む。 起動の速さ、画面の鮮明さ。 それさえあれば、メールとブラウジングが出来ればいいので、申し分ないデバイス。 (台本は、最近は裏紙に書き殴って、打ち込んで、出して、直す、というリズムです。すべて「直す」の為の手間。。。) 重いとか、持ちにくいとか、はムーアの法則で解決していくのだろう。 と、前置きが長いが、ここで描きたかったことは、宮崎駿さんの言葉についてだ。 ジブリ系の雑誌に、ipadを批判する宮崎さんの文章が載って、話題になっているが、 批判の中身はどうでもよくて、宮崎さんはipadを操作する様子を「さする」と表現したことに感銘を受けている。 正確には「自慰のように」という形容付きなのだが。 なるほど、ヘタをすれば、タッチパネルにタッチする時間に比べ、「さする」時間の方が長いときもある。 たしかにタッチ&「さする」のリズミカルなバランスは、Gに例えるのもよくわかる。 ただ、それではipadは、ちょっと敏感すぎる「デバイス」な気もするのだが。。。 「さする」という動作に、とって変わられた代表的なものは「ページを繰る」という動作。 手の位置を示す座標軸からz軸がなくなったということだ。(正確には「ページをつまむ」という動作もあるのけど) 3Dの感覚を仮想的に維持しながら、体積を奪うという方向。 という感じで、身体のこととか、ヒト対ヒトではなくヒト対マシンで「さする」ということとか、 思いを馳せるが、それをここで開陳するほど、まとまらず。 ただ、テレビを始めて見て「誰か入ってんのかいな」と裏を覗いたおばあちゃんのような、純朴な批判性は維持しながら、この速度の中で演劇を作るべきと考える。 明日、クーラーがつく。